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戊辰戦争150年─『西郷どん』には出てこない桑名藩の話

桑名市博物館で開催中(8月26日まで)の戊辰戦争150年展示会を観てきました。

私の選挙区である三重3区は、四日市市、桑名市、いなべ市など3市5町からなりますが、江戸時代には、そのかなりの部分が桑名藩でした。博物館の方から説明していただいたり、展示物を見たことで、幕末に桑名藩がどう対応したのか、再認識できました。

NHKの大河ドラマ『西郷どん』では、京都で活躍する一橋慶喜(よしのぶ、後の15代将軍・徳川慶喜)が登場しますが、当時、京都の中心勢力は「一会桑(いちかいそう)」と言われました。慶喜に加えて、京都守護職だった会津藩主の松平容保(かたもり)、そして、京都所司代を務めた桑名藩主の松平定敬(さだあき)の3人が幕府勢力の中心となり、長州などと対抗したのです。長州藩を打ち破った禁門の変も、中心は一会桑に薩摩を加えた勢力だったのです。

その後、鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となった桑名藩は、藩士の熟議の結果、戦わずに開城する決断をし、桑名が戦場となることはありませんでした。しかし、藩士の一部は、定敬とともに、長岡や会津、函館などで厳しい戦いを続けることになります。実は、会津の容保と桑名の定敬は実の兄弟でした。城を開くかどうか、殿様とともにあくまで戦地に行くか否か、多くのドラマがあったことでしょう。

桑名藩が朝敵になっていなければ、あるいは桑名が戦場となれば、桑名はもとより、北勢地方の姿も今とはかなり変わったものになったのではと、改めて考えさせられました。



コメント
  1. 林 直哉 より:

    私も歴史が大好きで、桑名藩のことたいへん興味深かったです。

  2. 楠本雄二 より:

    岡田先生野党統一で自公政権を退陣させて総理大臣になって下さい。

  3. yhorie28 より:

    桑名藩は敗戦後その敗戦を分析して好い決断をしたと思いますね、其れにより藩内の損害を避けたことは町民農家も損害を受けずにすんっだと思いますね。

  4. さんぴん茶 より:

    わたくしにとって本土はあまりに遠く、ともすると単なる一つの固まりと考えがちです。しかし、実際は多様な地域、多様な人々の集まりであることに気づかされました。
    明治をよき時代のように描くドラマはあまり好きではありません。沖縄にとっては災厄の始まりでしかないからです。江戸時代にしても、薩摩に侵略されましたから、悪い時代ではございましたが、明治以降の悲惨さとは比較になりません。
    ドラマに描かれた戊辰戦争というと、名作「八重の桜」を思い出します。会津の女性が主人公でした。明治礼賛の復古主義が世間にはびこりつつある現在、今回のような記事をもっと読みたいと思っています。

  5. 楠本雄二 より:

    岡田先生の言葉は事実ですのでとても心に響きます。頑張って野党統一に努力して下さい。
    又健康に留意して下さい。

  6. Tack より:

    私は秋田生まれです。
    当時の秋田藩は朝廷側についって奥羽連合を脱退してました。その根底には関ヶ原の戦いで西軍側について結果、徳川家康によって秋田に移封せれた名門佐竹の意地があったことと無縁でなかった。長州藩の徳川幕府に対する根強い反抗心と相通ずるものがあったと思っています。又勤王思想の平田篤胤を生んだ土地でありその思想の影響を受けた若い志士が中心となり勤王側に強引に藩を誘導した結果とおもいます。しかし奥羽同盟の裏切り者として最近まで肩身の狭い思いをしてきました。その点徳川幕府に殉じた会津藩、盛岡藩、米沢藩など明治に入ってから軍人を多く輩出し薩長中心の政治の中でその意地を数々の戦で武勲を立てました。薩長は従来の藩政時から中央集権的な改革して役割を果しましたが一方で国民に国際的な広い視野を開かせるべき努力を怠りマスコミも妄信的な軍部台頭を許してしまった。このことはマスコミの責任でもあり、教育者の視野の狭さでもあり、政治における指導者の責任でもあった。第2次世界大戦で敗北してもなお国民の多くはアメリカはじめ西洋文明を知る機会がないまま昭和40年代まで来たのであり、今初めて日本の近代化が始まって入りと言って過言でないと思っている。

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