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普天間飛行場返還――外相として私が考えたこと

 1996年4月の沖縄の普天間飛行場全面返還の日米合意発表から25年。合意の当事者であった当時の橋本総理が「5年ないし7年以内」の返還を明言したにもかかわらず、残念ながらその返還はいまだ実現していない。
 鳩山政権下で、外務大臣として、この問題に取り組んだ私は、大きな反省と責任を感じている。外相当時の私の判断と思いを記録に残すことが大切だと考え、最近のインタビュー記事 (朝日新聞社のデジタル有料サイト「証言 動かぬ25年普天間返還合意 『最低でも県外』発言と迷走-岡田克也元外相が感じた壁」)を基本に大幅に加筆することとしたものです。



(肩書はいずれも当時)






 ――25年もの間、返還が実現しない要因をどう考えますか。 



 「普天間は危険であり、移設の必要性は多くの人が確認していますが、どこに移設するのかについての合意形成ができていない。沖縄の人々を納得させるだけのものが提示できていません。1996年12月に海上に代替施設を建設することで日米合意しましたが、具体的に辺野古移設が日米合意されたのは10年後の2006年5月です。沖縄県との関係でいえば、当時の稲嶺恵一知事は、この米軍再編の日米合意について海兵隊8000人のグアム移転などを高く評価したものの、普天間飛行場の辺野古移転については、容認できないとしました。辺野古移設について、当時の沖縄の多数の人々が納得していたのか、かなり疑問です」



 ――2009年の政権交代を控えた総選挙中に、民主党の鳩山代表が「最低でも県外」と打ち出しました。



 「衆院選中の、それも沖縄での発言でした。当時、幹事長だった私は『何で言うんだ』と頭を抱えました。普天間問題の難しさは十分理解しており、衆院選のマニフェストには、あえて県外・国外への移転と書かなかった。でも代表が発言したことは重いですよね」



 ――岡田代表時代の05年の民主党沖縄ビジョン改訂版でも「県外移転」や「国外移転」に触れています。当時から「県外・国外」という考え方はあったようですが。



 「ビジョンを議論していた現場は『国外』と入れたいと報告してきました。それでは『米軍は日本から出て行け』というメッセージになる。政権をめざす政党として、米軍を敵視するような政策を取るのは、無責任ではないかと思いました。一方で、沖縄に普天間、嘉手納の二つの大きな基地があり、負担が重すぎることは事実で、民主党として真剣に取り組まなければならない課題であることは否定できません。そこで、『県外』を加えてくれ、とお願いしました。2005年当時に、具体的に目算があったわけではありません。無責任に『国外』と言わない、ということであれば、国外・県外に移設先を探すということしかありませんでした。」



 ――09年の衆議院選挙におけるマニフェストで県外・国外移設に触れなかったのは、なぜですか。

 

 「党内で議論したうえで判断しました。政権交代目前ですから、できない恐れがあることは書かないようにしよう、幅を持たせよう、と。ちょうどそのころ、米国の専門家たちから『日米で様々な課題があることはわかるが、いきなり全部並べると難しくなる。優先順位をつけて、一つひとつ片付ける発想でやってもらいたい』とアドバイスされました。民主党政権として対応しなければならない内外の多くの課題がある中で、また日米同盟を大切にする前提で考えたときに慎重な対応が必要だと考えました。日米間の課題については、政権に就いてから外務省や専門家などの意見も聞きながら優先順位を付けていこう、と。マニフェストには『普天間』という言葉は意識して入れませんでした」



 ――ですが、鳩山さんの発言で、「最低でも県外」は民主党政権の事実上の公約となりました。 



 「そうはしたくなかったので、衆院選直後、幹事長として、社民党と国民新党との連立交渉を行う際に努力しました。普天間は社民党が強く主張し、また鳩山さんの発言もありましたから相当もめました。そこは粘ってマニフェストの線に合わせて連立合意にも何も書きませんでした。政権合意に書かないことで鳩山さんの選挙期間中の発言を和らげ、政権としての優先順位を下げようとしたのです。しかし、その後民主党政権に対して野党は当然予算委員会で追及をします。外務大臣に就任していた私は何とか鳩山総理を守ろうと必死で答弁をするのですが、鳩山総理が『あのきれいな海が』とか、どんどん踏み込んじゃうんですよ。沖縄に大きな基地は二つもいらない、という思いはそれだけ強かったんでしょうね。しかし、政権にとっては致命傷になりかねない。防衛相の北沢俊美さんと『鳩山総理に代わりはいないが、大臣はいくらでも代わりがいる。だめだったら我々が辞めたらいいんだから、任せてくれ』と訴えたけど、ほとんど効き目はなかったです」



 ――岡田外相は米空軍の嘉手納基地への統合案を推していたとされていますが。 



 「『県外』という流れを変えようと思い、嘉手納に言及したわけですが、混乱を招いてしまいました。米側も嘉手納への移転と言った時期が、かつてありましたので、平時に議論すれば可能性がなかったわけではないと思っています。しかし、空軍基地に海兵隊を同居させるという米軍全体にとっても難しい話を、あれだけの混乱のなかで、米側が簡単に応じることはありませんでした。私自身、海兵隊が米国議会に対して持つ政治力や陸海空軍と海兵隊の微妙な関係について認識が不足していました。」



 ――自身としては、いつごろ、そしてなぜ、辺野古案に戻るしかないと思ったのですか。 



 「沖縄本島北部にある海兵隊の北部訓練場の機能を日本のどこかに移転することが困難である以上、飛行場の移設先は地理的に限られていると考えていました。全国知事会でも意見交換しましたが、過去に暴行問題など様々な問題がある海兵隊の基地を積極的に引き受けることは現実的にも困難で、関空の活用を提案した橋下大阪府知事以外は強い反対意見が相次ぎました。鳩山内閣として手を尽くしましたが、実現可能な移設計画につながる手がかりとなる意見は、本土のどこからも上がりませんでした。民主党の沖縄選出国会議員が準備してくれた地元集会・意見交換会への出席などを通じて、時間が経過するほど、沖縄で県外移設の期待感が高まり、迷宮に入ってしまうと考えました。具体案の見通しがない以上、問題を長引かせるべきではないと考えたのです。日米が色々な懸案や協力して解決すべき課題を抱えるなかで、普天間問題で鳩山政権が米政府から厳しい見方をされるようなことは避けるべきだと考えました。また国会での厳しい追及やメディアの報道によって、鳩山政権の体力が奪われつつありました。09年11月には『元の案に戻るしかない』と思っていました。」



 ――鳩山さんはそのころも、辺野古回帰には否定的だったと思いますが。 



 「そもそも移転先の目途がない中で迷走を続ければ、政権の求心力は失われ民主党政権としてやるべき改革も実現できなくなります。鳩山総理には特に米国政府の見方を説明しながら何度も説明・説得しました。11月から12月にかけて『辺野古以外の選択肢はない』ということで、鳩山総理を含めた関係閣僚で非公式に確認しています。その上で、総理にも了解を取って、米側に12月下旬、『元の案に着地せざるを得ない可能性が高い』と伝えました」



 ――辺野古移設を正式に決めるまで時間がかかりました。 



 「鳩山総理は、方向性は決めたものの、まだ沖縄県外への移転という希望を捨てていませんでした。年が明けても、ほかにもっと検討できないのかと。平野博文官房長官が中心となって、官邸中心にいろいろ模索したようですが、最後に候補として残った鹿児島県の徳之島で、地元3町議会が10年の3月定例会で反対決議を可決した。そこで最終的に辺野古以外は無理だ、ということになりました。時間をかけたのは、社民党の説得の問題もありました。国会で重要法案が成立するまでは政権の安定が必要だったのです。結局、連立政権離脱ということになりましたが。」



 ――自身としては、民主党政権の対応をどう総括しているのですか。 



 「鳩山さんの純粋な思いは尊いものだと思います。でも、当然のことながら、それが実現できるのかどうかを踏まえたうえで、行動しなければいけなかった。鳩山総理退任の大きな要因となりました。大きな混乱を招いてしまったことは事実で、残念だし、民主党政権になって県外移設が実現すると期待してくれた沖縄県民に大変申し訳ないと思っています。そもそも政権交代が実現してリーマンショック後の経済の再建、子ども子育て支援策、政と官の関係、地方主権改革など民主党政権が取り組まなければならない課題は山積していました。きちんと優先順位をつけてやるべきで、普天間問題は時間をかけて慎重に取り組まなければならなかったと思います。」



 ――仮に政権交代がなかったら、鳩山さんが「最低でも県外」と言わなかったら、普天間返還はどうなっていたでしょうか。 



 「それはわかりませんし、無責任なことを言うつもりはありません。自民党政権が1996年以来取り組み、沖縄を十分納得させることができなかった難しい問題です。当時もいまも、沖縄の人たちには『なぜ自分たちだけが負担を負わされるのか』という気持ちが沸々としてある。一方で、このことにまったく無関心な沖縄以外の多くの日本人がいる。この構図を変えないと、根本的な解決にはならないと思います。」



 ――その構図は変えられますか。 



 「簡単なことではありません。菅直人、野田佳彦両総理の下でかなりの努力をしました。私は与党幹事長、副総理として関与し続けました。沖縄振興特別措置法を改正して、沖縄振興計画をつくる際、国から沖縄に案をおろすのではなく、沖縄がつくったものを国が認める形にしました。沖縄県が自由に使える一括交付金もつくり、予算も大幅に増やしました。当時の仲井真弘多知事には一定の評価を頂いたと思っています。でも、仲井真さんは知事選で敗れてしまいした。最低でも県外と思っていた沖縄の人々には、民主党政権としての努力が十分なものとは受け止めていただけませんでした。今後、沖縄の負担に対する沖縄以外の人々の理解をいかに深めていくかが大きな課題です。日本や東アジアの安全保障を考えるにあたって、ロシアより中国が主要な課題となる中で、沖縄の戦略的重要性が今後更に高まることは確実です。日本全体としてどのように負担を分担していくのか、国民の理解と関心を高めることが増々大切になります。」


 
 ――安倍政権、菅義偉政権と続くわけですが、沖縄と本土の溝は埋まっていません。 



 「仲井真さんを破り、自民党県連幹事長を経験した翁長雄志知事が誕生しました。辺野古移設反対の立場で当選したことは事実で、簡単なことではありませんが、元々、保守政治家である以上、ひざをつき合わせて話をすれば、一定の共通理解に達する可能性があったと私は思っています。でも、安倍晋三首相も菅官房長官も知事就任から約4カ月間会わずに、突き放した。その後も溝はどんどん深くなっていった、本当に残念でした。その後も、沖縄と本土の溝は埋め立て工事の強行で深まっているのが現状です。」



 ――立憲民主党の枝野幸男代表は「辺野古に新しい基地をつくらなくても、日米安全保障体制は堅持できる。工事を止めたうえで、沖縄県民、国民、米国政府の前で議論する」と訴えています。かなり高いハードルを設定したのではないですか。 



  「非常に難しいことは事実です。辺野古移設以外に、日本のどこかに持っていくという可能性もほとんどないと思うし、米国が納得しない中で、『辺野古も普天間もダメですよ』ということにはなり得ない。結果として、当面、普天間が続くことにならざるを得ないが、大きなリスクを抱えたままになります。『移設なし』を最終の答えにしてはいけないのです。」



 ――では、どうすればいいのでしょうか。 



 「このままどんどん埋め立てをしていくとなれば、亀裂は癒やされることなく、沖縄と沖縄以外の本土の分断が進んでしまう。沖縄の戦略的重要性が今後ますます増す中で、この分断が将来、日本の安全保障にとって、さらに深刻な問題を生むことになりかねません。他方で戦略環境の変化を受けて、海兵隊の役割自体が大きく変わりつつある中で、辺野古の基地の役割について再検討の余地がないとは言えません。軟弱地盤の問題も明らかになりました。日本政府も全体で9300億円規模の支出が必要としています。それだけの予算を投じるのであれば、米軍のために日本ができることがほかにもあるかもしれません。静かな環境下で埋め立て工事を中断し、より基本的な協議を始めることを米国政府に提案すべきです。即ち新たな安全保障環境のもとで、日米でどのような役割分担を行うのか。その中で海兵隊の役割をどうするのか。基本的な議論を日米両国政府間で行う必要があります。これらの議論は、日本や東アジアの平和と安定を確保するために極めて重要で、その方向性に沿った形で、普天間基地の問題が議論される必要があります。その間工事は中断すべきですが、中断であって異なる議論が日米合意されるまでは、あくまで辺野古移設合意は日米間で有効だと考えなければなりません。よりよい解決を模索するために、まずは中断させるということだと私は考えています。」




コメント
  1. さんぴん茶 より:

    岡田さんの真剣さと誠意は受けとめました。辺野古新基地建設(移設ではありません)には断固反対します。高いハードルを越えるため何をすべきかをお考えください。それが政治家の責任であり、義務です。

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