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2001.08.01|マスコミ

政治家の本棚 「世界の名著に線を引き引きトライ」

政治家の本棚 62

岡田克也氏 おかだ かつや

衆議院議員

民主党政調会長

元通産省企画調査官

1953年7月14日生まれ

◎インタビュー:早野 透 Hayano Toru 朝日新聞編集委員

「世界の名著」に線を引き引きトライ

◎―――昭和二十八年生まれでしょう。戦争の傷跡はほぼどうやら癒えてきた時代ですよね。

岡田――たまに家族で名古屋の動物園に連れていってもらったりというのが楽しみだったんです。まだ引揚者みたいな人が地下道なんかに並んでいて、非常に印象に残っていますね。戦争の傷跡というとそれぐらいですね。

◎―――育った三重県四日市市は?

岡田――「四日市」ですからね、もとは商業の町です。戦後、旧海軍廠の跡にコンビナートができた産業都市で、「発展する若い町」というイメージだったんですが、小学生の頃に公害問題が顕在化して、同級生でぜんそくに悩んでいた人もいたし、後に亡くなった人もいました。「公害の町」というイメージをいまだに引きずっていますよね、もういまはないんですけれども。

◎―――父上のジャスコはその頃もう動き出したんですか。

岡田――もともと呉服屋を二百年ぐらい続けてきた家が戦後、売るものがなかったものですから、何でも売るようになって地方百貨店だったんですね。

◎―――戦後社会的発展のなかにいたわけですな。小学校は。

岡田――地元の中部西小学校から中部中学校です。父もそうだし、私の子どもも同じですけどね。

◎―――その頃は、本なんかは。

岡田――小学三年生のときに交通事故に遭いまして、骨折して二カ月ぐらい入院したんですよ。田舎で交通事故ってそんなに多くなかったですからテレビニュースになりました。そのときに読んだのが『シートン動物記』とか『ファーブル昆虫記』。

◎―――勉強家でしたか。

岡田――母親に言わせると、学校では優等生のふりをしていた、家では違ったと言うんです。僕、三人兄弟の真ん中なものですから、かなり生存競争は厳しかった。男三人の真ん中というのは『次郎物語』と同じ構図なんですね。だから『次郎物語』って好きだったんです。でもまあ、小・中学校は地方都市でわりと暢気に過ごしましたね。

◎―――学校の生徒会なんかは。

岡田――小学校のときは生徒会長とかに立候補して百七対百で当選した記憶がありますね。

◎―――接戦だな、こりゃ。

岡田――ええ、負けた相手は後期の生徒会長をやりました。中学校はテニスクラブでかなり熱心にやりましたので、立候補しませんでした。

◎―――勉強は?

岡田――いやなものはいやなんですね。やらないんですよね。覚えるのが非常に苦手なものですから。社会とか得意じゃなかった。英語はもう不得意でしたね。

◎―――現在の民主党政調会長ぶりとはぜんぜん違うじゃないですか、それは。

岡田――中学校で英語で「5」だったのは一年生の一学期だけで、ずっと「4」だったですね。僕、家の都合で高校から大阪に行ったんですよ。中学校の友だちが「岡田が東大へ行くとは思わなかった」って言いますから。

◎―――大阪教育大付属池田高校ですね。

岡田――父が大阪で新しく会社を合併してつくる、それがジャスコなんです。兄は高校三年生で、弟が小学六年生だったものですから、きりが悪いから一年間待つ。「おまえはどうするか」と言われて「それじゃ大阪へ行くか」と。国立大学ですから受験も公立より早かった。それに受かれば北野高校を受けようかと思っていたんですが、通った途端に面倒くさくなってそこは受験しませんでした。一年間は大阪で父親と二人で生活して、父も半分くらいしかいませんでしたから、多少自炊みたいなことをして。一年は寂しかったですね。高校は紛争で二カ月ぐらい閉じちゃうし。

◎―――どうしてですか。

岡田――大学紛争の生き残りが高校に来て叱咤激励した。三年生に西川ってのがいましてね、後に「ハーグ事件」を起こした、あれは赤軍派ですか。ある日学校に行ったら閉まってて、封鎖ですね。私は田舎から出てきた一年生で、目が回るような、よくわからないような……。

◎―――バリケードつくったり、閉じこもっていたりしてたわけですか。

岡田――そうですね。学校の授業はやっていなかった。授業がないから集まって討論です、僕らは反対派ですけどね。三年生になって、日本史の先生が「君らが紛争のときに言ったような受験教育一辺倒の授業は私はしない」って宣言して、「私は近代しか教えないから、明治より昔は君たち自身で教科書を読んで勉強しろ」って言って、大学レベルの授業をやってくれたんですよね。いま同級生が集まると、「あの授業がいちばん印象深い」という話になりますね。

◎―――その頃は勉強はどうでした?

岡田――一年生は勉強しなかったし、成績はよくなかった。二年生はスランプで最悪でしたね。四十人でずうっと三十番台でしたものね。三年生になって心を入れ替えて勉強したということですね。

◎―――なるほどねえ。その頃は少しは記憶に残っている本はありますか。

岡田――あまり読んでいないですね。いろいろ考えごとはしてたような記憶はあるんですが。ともかく大学に滑り込みセーフでした。

◎―――何か本番に強いんだなあ。

岡田――わりと私、頑固ですので、例えば歴史なんかも「絶対おれは年号は覚えないぞ」って決意しましたので、一つも年号は覚えなかったんですね。

◎―――なんでそんな……。

岡田――「そういう無意味なことを強いる教育はおかしい」と。私、東大へ行きたかった理由って、東大の過去問を見ると、年号が出なかったというのが大きかったんです(笑)。うちは代々早稲田で、「なぜ官学なぞに行くのか」っていって怒られたんですが。

◎―――しかし、変わった決意だな。普通は「まあ年号も覚えとこう」というふうになっちゃうけれど。何か自分で方針を立てて実行するという感じがその頃からあったのかしら。



岡田――そうかもしれませんね。

◎―――東京ではまた一人でしょう。



岡田――賄い付きの下宿でしたので食事つき。当時、大学紛争の自主ゼミみたいなものがまだ残っていたんです。折原浩先生のもとで僕らはマックス・ウェーバーを読んでいたんですけれども。『職業としての政治』とか『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、わからないなりに印象を受けて。自主ゼミでしたので単位にはたぶんならなかったんじゃなかったかなと思うんですが。

あと、佐藤誠三郎さんがアメリカから帰ってきた新進気鋭の政治学者で、まだ三十代だと思うんですね。彼のゼミは毎週、四、五冊読まされるんです。

◎―――佐藤誠三郎さんは官界、学界のいろんなところに弟子がいますね。

岡田――当時、エズラ・ヴォーゲルの本なんかを読みました。彼が日本に来たときに書いたものかな、『日本の新中間階級』。ぜんぜん有名じゃなかったんですけど、後に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書きました。のちに私のハーバード留学のときの先生です。あと、ロナルド・ドーア。

◎―――そのへんの学統がつながっているわけか。

岡田――「世界の名著」ってありましたよね。それでキルケゴールとかパスカルとかデカルトとか、全く歯が立ちませんでしたが、何か一生懸命トライしていた時代ですね。小説もずいぶん読みましたけれども、ドストエフスキーがいちばん。最近『カラマーゾフの兄弟』を読み直してみようかなと思ったんですが、全く読めなかった。感受性がたぶんなくなっているんだと思うんですけど。一、二年生は本の虫だった。「世界の名著」などいま読み返すと線があちこちに引いてある。でも、なぜそこに線を引いたのかが全くわからなくて(笑)。小林陽太郎さんの日本アスペンのエグゼクティブ・セミナーというのがありまして、おもに企業人が古典を読む研修なんですね。二年ぐらい前に参加したんです。「週に一時間は読んだほうがいいよ」とそのときアドバイス受けたんですが、なかなかね。

◎―――就職は。

岡田――司法試験は落ちました。もう二度と受ける気がしませんでした。

◎―――あれもめちゃめちゃ記憶しなくちゃいけないからなあ。通産省に入られてどんなことをしていたんですか。

岡田――最初は、中小企業政策。二年目で法律をつくれと言われてから、役所時代はわりと法律をつくることが多かったですね。

◎―――法律をつくるのは、見込みのある若手にやらせる仕事でしょう、霞が関全体を掴むために。

岡田――まあ、各省折衝など一通りありますからね。三年目、四年目はマクロ経済の担当で、福田内閣の河本敏夫通産大臣の頃ですね。課長が杉山弘さんって後の次官、最近、電源開発社長を辞めました。課長補佐が町村信孝自民党幹事長代理で、私が係長。麻雀とかずいぶん遊びましたけど、当時のマクロ経済の勉強、いま役に立っていますね。それが終わって第二次オイルショックで石油を扱って、緊急事態法制をつくったり、灯油とかガソリンの配給切符をつくって倉庫に仕舞い込んだりね。

◎―――そんな事態まで行ってたんでしたっけねえ。

岡田――そうです。あんまり表に出しませんでしたけど。

◎―――珍しい話だな、それ。

岡田――第二次オイルショックの役所の対応は、隠れた成功物語だと僕は思いますけどね。情報開示をしなかったと言われればそれまでなんですが、「大丈夫」だと言い続けながら配給のための法律とかの案は全部つくって、かなり忙しかった。かなり厳しい実態をそう大きな混乱なく乗り切ったんですね。大平首相の「東京サミット」のときですよ。

◎―――その後は。

岡田――機械情報産業局で、いま資源エネルギー庁長官の河野博文さんが企画官で、その下でコンピューター・ソフトウェアの法的保護の問題をやっていました。アメリカが著作権で保護するというのに、われわれが異論を唱えた。富士通、日立事件とかありましてね、IBMのソフトウェアを盗んでいたとかいう事件です。われわれは「著作権法では保護が厚すぎる。独自の法律をつくるんだ」と壮大な構想だったんですが、最後はアメリカ議会を抱き込んだIBMにこてんこてんにやられちゃったんです。いろいろ議論して面白かったけれど、そこで私は若干ナショナリスティックになったんです。それが終わって、アメリカに一年間行ってこいと言われて、ハーバードのヴォーゲルのもとで過ごしたんですね。しかし英語不得意ですから……。

◎―――どうなりました?

岡田――悲惨だったですねえ(笑)。最初の一カ月間、語学研修のときは地獄ですね。三十代になって行くのはしんどいですね。当時、家内と二人でしたから、家はソニーの盛田昭夫さんの話にならって、少し大きめの部屋を借りて、そこへいろんな人を呼びましたね。竹中平蔵も来たことがあるんですよ。みんな食べ物を持ち寄るときに、彼がちらし寿司を持ってきたのを家内が覚えていて、「竹中さんの顔をテレビで見るたびにちらし寿司を思い出す」と。彼は当時、日本開発銀行から来ていた。

◎―――いまの時代を背負う人たちの梁山泊でもあったわけだな。

岡田――僕がアメリカで買った家具は慶応の島田晴雄さんに売って帰ってきたんです。アメリカにいるときに、「ああ、政治もなかなかいいな」と。そのとき初めて「政治家にひょっとしたらなろう」と思った。それまでは全くそういう気持ちはありませんでしたので。

◎―――なんでそう思ったんですかね。

岡田――当時、レーガン大統領の時代ですよね。まあ、日本よりは政治家は尊敬されていますよね。政治への参加意識もあるし、それはハーバード、ボストンという独特の雰囲気はあったかもしれませんが、政治家が、あるいは政治が世の中を動かしているという、これは日本ではなかった新鮮な驚きですよね。

◎―――日本ではとりわけ派閥抗争の時代でしたからね。

岡田――それで帰国して、地元の四日市出身の山本幸雄先生と最初は喧嘩するつもりで地元へ帰っていたりしていたんですね。通産省を辞めて、選挙まで一年八カ月ぐらいでしたね。途中で山本先生の後継となりました。山本先生、党を変わってもずうっと応援演説してくれています。

◎―――それで当選。このときはしかし、自民党竹下派でしたね。いきなり政治改革と竹下派分裂がやってきた。

岡田――私、自民党総務会で亀井静香氏と取っ組み合いして新聞に載ったりしました。先頭切って小沢一郎氏擁護で自民党を出て新生党に行きました。

◎―――だけど、のちに新進党を小沢さんが解党したときに、岡田さんが反対する激しい演説をぶたれていましたね。

岡田――ビラ配りまでしましてね。「解党はおかしい」って。あれが小沢さんとの決別だったんですね。解党はもったいなかったですね。その前に羽田孜・小沢一郎の闘いがあって、私は母親と父親が喧嘩して、その子どもみたいな状況でした。なんとか仲直りさせようと思ったんですけど、だめでしたね。そこで二大政党に行くコースが逸れました。

◎―――そして民主党をつくる。

岡田――それから三年。僕はわりと落ち着いて、政局からは少し身をおいて、政策の勉強を中心にしてきたつもりなんですが、自分なりの基本的考え方の形が取れてきたので、少し政局のほうもと思ってはいるんですけどね。

◎―――「小泉ブーム」が出てきちゃって民主党は……。

岡田――僕は政権を取りに行ける党だと思っています。政策面では、自民党を超えたと思っているんです。小泉さんが出てきたのは、従来の自民党に対して国民は「ノー」と言ったということなのです。次の衆院選挙は本当に政権を取りにいく選挙になると思いますね。

◎対談後記◎

岡田克也氏は民主党のポスト「鳩菅」のエースである。衆院予算委員会での小泉内閣への岡田氏の質問は緻密で幅広い政策知識を身につけていて、一種の余裕さえうかがわせた。 ウェーバーを読み、「世界の名著」にトライし、エズラ・ヴォーゲルに学んだ岡田氏のたどった道を聞けば、かつての野党にありがちな反体制といったおもむきは全くない。それはかえって日本政治でのこだわりのない政権交代の可能性を期待させる。(早野)




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