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2005.04.11|マスコミ

人物プロファイリング

「次の首相にはだれがよいか」という朝日新聞の世論調査(’05年2月1日付)で、安倍晋三・自民党幹事長代理に次いで2位に名前が挙がった岡田克 也・民主党代表。ちなみに3位は最近、岡田批判を執拗に繰り返している小沢一郎・民主党副代表だった。昨年7月の参院選で一大ブームを巻き起こした岡田人 気も、今は一段落した観が否めないが、それでも野党側の「ポスト小泉」一番手として期待されていることを印象付けた。

岡田代表と小泉首相はタイプも雰囲気も、まるで水と油。それがあらわになったのが、代表就任直後の’04年6月2日、両者の初対決のシーンだった。年金 問題をめぐって、小泉首相が「人生いろいろ」と発言、岡田代表は「それが総理の言う言葉か」と激昂した。結果的に、この小泉首相の失言が、参院選での「自 民敗北、民主躍進」につながった。

今、小泉首相について感想を求めると、岡田代表からこんな言葉が返ってきた。

「私も一時は期待していましたし、基本的な方向性はある程度共有している部分もあります。しかし、小泉さんは言葉だけです。形はあるけれど、中身がない。 失礼ながら小泉さんは、これまでの人生で、物事を深く考えるということをあまりしてこられなかったんじゃないか。そう思いますね」

永田町きっての堅物として知られ、ついた徒名が「原理主義者」「政策ロボ」に「笑わん殿下」……。贈り物は一切受け取らない、酒もほとんど飲まない、会合費はすべて割り勘。その生真面目ぶりを伝えるエピソードには事欠かない。

よく知られるように、岡田代表は全国にジャスコを展開するイオングループ創業者の御曹司。現在の岡田元也社長は、岡田代表の兄にあたる。さらにさかのぼ れば、岡田家は200年以上続いた四日市の老舗呉服屋だが、なぜ商売人の一族から、岡田代表のようなカタブツ政治家が生まれたのか。岡田代表本人のインタ ビューを中心に、振り返っていく。(以下、一部敬称略)

割引券を集める倹約家の中学生

■ テレビデビュー

1953年7月14日、三重県四日市市生まれ。3人兄弟の2番目(弟の昌也氏は中日新聞記者)。身長176センチ、体重76キロ。血液型 O型。四日市市立中部西小学校3年生のとき、交通事故で骨折し2ヵ月入院。当時、地方都市では交通事故がまだ珍しく、テレビニュースにとりあげられた。

■初当選

小学6年生のとき、児童会の会長に立候補し、107票対100票の僅差で当選。人生初の選挙で無事勝利を収めた。

――自分から立候補したのですか。

「各クラスから候補者を立てることになって、たまたま選ばれたんです。今でも7票差だったことを覚えているところをみると、危なかったという思いと、よかったという安堵感があったんでしょうね」

――衆院選初出馬のとき、当時のことを思い出しました?

「それはあまりないです。小学校のときのことですから」

……にべもない。

■友達の数は「普通」

「子供のころ、周囲はたんぼが広がっていて、自然が好きだったので、昆虫採集をよくやってました。近くの貯水池で魚を獲ったりとか」

――友達は多かったですか。

「まあ、普通ではないでしょうか」

――成績は?

「成績はあまり……。田舎の小中学校でしたから。成績なんか気にせず遊んでいました」

■倹約家 

‘66年、市立中部中学校に進学。軟式テニス部に所属する。周囲からはカネ持ちの坊ちゃんと見られていたが、元クラスメートはこう証言する。

「ぼくらと同じで、小遣いはそんなに持ってなかったですよ。中学校の前に文房具屋があって、ここで買い物をすると、10円につき割引券を1枚くれるんで す。岡田もみんなと一緒にせっせと割引券を集めていました。おカネに関しては当時から倹約家でしたね」(中学時代の同級生・福田高明氏)

■ノーコメント 

先の参院選で民主党が躍進した理由のひとつに、代表の岡田に女性の支持が集まったことが挙げられる。学生時代から当然、モテたのかと思いきや……。

「女性にモテたという記憶は、あまりないですねえ」

重ねて、「初恋とか、初デートは記憶にありますか」と聞いたところ、

「どうですかね。そういうのはノーコメントです」

とのことだった。

■初恋の人 

ならば先ほどの同級生に再度、登場願おう。

「モテるタイプではなかったですよ。やっぱり岡田屋(当時)の御曹司やから、女の子のほうに引いてしまうところがあったんでしょう。当時、ぼくらの学年で 一番きれいで、勉強もスポーツもできてという三拍子揃った子がいて、この子が岡田の憧れでね。でも、彼女が初恋の相手じゃないんですよ。彼は『ぼくの初恋 は保育園の先生や』って自分で言ってましたから」

代表、なかなか早熟である。

暗記が苦手だから東大を選びました

■ 二人暮らし 

中学卒業後、地元の四日市を離れ、大阪教育大附属池田高校に進学。これは父親の岡田卓也氏(現・イオン名誉会長)が、合併により大阪でジャス コを誕生させたのに伴う引っ越しだった。他の家族は地元に残ったが、15歳の岡田少年は、「新しいところを見てみたかった」という理由で、自ら父親との二 人暮らしを選んだ。

■父の背中

「それまでずっと仕事で忙しいためにあまり接点のなかった父親と、あの時期、一緒に暮らしたのはよかったと思います。父親はさまざまな法規制のなかで事業 を広げてきて、そういう意味では権力と戦ってきたわけですよ。よく『官僚はけしからん』などと言っていました。ですから、私の反権力的な考え方は、父から 受け継いでいるのかもしれない。だいたい父のような商売はつねに消費者の立場に立って、世の中の変化に敏感でなければいけませんから、そういう部分は父か ら学んでいると思いますね」

■学園紛争 

高校入学が’69年。ちょうど学生運動が高校にも飛び火していた時期で、岡田が1年の秋、学園封鎖となった。当時の上級生に、のちにオランダ でフランス大使館を占拠した「ハーグ事件」(’74年)の実行犯、日本赤軍の西川純被告がいた。大半の生徒たちが学園封鎖を支持するなか、岡田は冷静だっ た。

「校内に機動隊も入ったし、何人かは学校をやめていったけれど、私には学園封鎖する必然性がわからなかったんです。いったん学校を正常化してから話し合う べきだと考えていました。今にして思えば、得がたい経験でしたね。ただ、機動隊により正常化したら、みんな一様に何事もなかったように涼しい顔をしてい た。その変わり身の早さには違和感があったし、ショックでした」

■選挙分析癖 

とはいえ、岡田が学園封鎖派のグループと正面からやり合うこともなかった。高校時代、岡田と同じく学園封鎖反対のグループに属していたという同級生の古川令治氏が語る。

「封鎖派の連中に囲まれて角棒で殴られる寸前までいったこともありました。そういうとき先頭に立って意見を言う奴もいましたが、岡田は一歩下がったところ で、黙っているんです。だいたい当時、彼が政治やマルクスについて何か語っていた記憶はほとんどありません。ただ、選挙があると、当時の各政党の公約をよ く読んで比較検討をしてましたね。当時は彼なりに何が正しいのかいろいろ考えていたんでしょう」

■素うどん 

ちなみに高校時代の成績はパッとせず、とくに2年生のときはクラス40人中30番台。あまり目立った存在でもなかったらしく、「彼が社長の息 子だと知ったのも、知り合って1年後のこと。食堂でいつも素うどんを食べていて、身なりも質素でしたから、社長の御曹司にはとても見えなかった」(古川 氏)。

■東大法学部 

だが、3年生になると本気で勉強を始め、’72年、東大法学部に現役合格。岡田家は岡田の祖父、父をはじめ代々、早稲田出身が多い。

「東大を選んだのは、試験問題がぼくに向いていると思ったからです。私は暗記がまるでダメで、日本史も世界史も年号は一切覚えないと決心して、それを実行 した。幸い、東大の入学試験が記憶力を試すような問題じゃないことがわかって、ひょっとしたら受かるかもしれないぞと思ったのです」

――それにしても、クラスでも30番台だったのに、よく合格できましたね。

「3年生のときは必死で勉強しましたよ。それこそ真面目に。まあ、合格はまぐれでしょうけど」

あくまで淡々と、代表は語るのであった。

妻は同級生・村上大臣の妹

■ ドストエフスキー 

東大では「山歩きの会」に入るも体力が続かず、数回参加しただけで退会。以後、読書にふけるようになる。当時、感銘を受けた本はドスト エフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』。現在も読書家で、年間100冊を読破する。ちなみに昨年の芥川賞受賞作、『蹴りたい背中』は読んだが、 『蛇にピアス』は途中で断念したとか。

■コケた司法試験 

大学4年生のとき司法試験を受けて失敗。本人によれば、法曹界に進もうと思っていたわけではなく、「公務員試験のついでに受けただけで す。苦手の記憶力が試される試験ですから、およそ合格するとは思っていませんでした。ただ、資格を持っていればなんらかのプラスになりますからね。そうい う意味で受けました」。

■通産官僚 

‘76年に旧通産省に入省。当時は三木内閣時代で、通産大臣は河本敏夫氏。直属の課長が、のちに事務次官となった杉山弘氏(元電源開発社長)、課長補佐が町村信孝・現外務大臣だった。

■6時から8時まで 

通産官僚時代を知る高校時代の同級生・冨山武志氏が言う。

「彼がまだ通産省にいたころ、何度か一緒に食事しました。彼は夕方6時から食事を始めても、8時には切り上げて、また霞が関に戻って仕事をするんです。こ ういう官僚もいるんだなあと思いました。当時、ゴルフも一緒にやりましたが、決してうまくはなかったですね。あまりやったことがなかったんでしょう」

■結婚 

ただ、官僚時代は仕事ばかりしていたというわけでもない。当時はまだ東京女子医大に通う学生だった多津子さんと結婚したのもこの頃だ。多津子さん は岡田と同じサークル(東大法律相談所)に所属していた同級生の妹。その同級生というのが、現在、行革担当相を務める自民党の村上誠一郎代議士である。

――どちらが積極的でした?

「そのへんは見解の分かれるところですから」

■出馬 

1年間の米国留学を経て、’88年に退官。’90年の衆院選に自民党から初出馬して当選する。36歳だった。

「官僚の手のひらのうえで振り付けに従って動いている政治家も多かった。でも、政治家がリーダーシップを持たなければ、この国は潰れるという危機感があった」

■原理原則 

自民党では竹下派に属したが、’93年、小沢一郎、羽田孜らとともに自民党を離党。新生党、新進党をへて、’98年の民主党結成に参画。この 間、かつて自民党を飛び出した議員が次々に古巣に復党しても、「原理原則」を貫いた。民主党政調会長から幹事長を歴任し、’04年5月、民主党代表に。

■銀座のクラブ 

『小沢一郎の政権奪取戦略』など政治関連の著書が多い、作家の大下英治氏が、岡田を取材したときのエピソードを語る。

「代表就任前に取材したとき、側の机のうえに、ある政治家が銀座のクラブで遊んでいるというようなスキャンダル記事が載った雑誌が置いてあった。私が『政 治家もいろいろ書かれて大変ですね』と水を向けたら、彼は『えっ、私は全然構いませんよ。銀座のクラブなんてこの10年間、一度も行ったことありませんか ら』と答えました。いろんな政治家を見てきましたが、珍しいタイプですね」

■小沢一郎 

政治家・岡田が「父」と呼ぶのが、小沢一郎である。「柔軟性がない」などと、たびたび苦言を呈する「父」を岡田はどう見ているのか。

「まあ、それにぼくが反論したら差し障りもありますから……、もっと頑張れという趣旨の苦言と受け止めております」

コンビニのご飯、結構うまいでしょ

■「母」のエール 

もうひとり、岡田が「母」と仰ぐ羽田孜氏からはこんなエールも。

「私がスイスで農家の人からもらったチーズをおみやげに持っていったら、彼は後で『先生、こんなことして申し訳ありません』と言いながら、わざわざチーズ を返しに来ました。確かにやりすぎかもしれないが、政治とカネの関係が問われているなか、彼のような人こそ求められている。まあ、贅沢を言えば、公私とも にもう少し丸みが欲しいですけどね」

■単身赴任 

プライベートでは、家族(多津子夫人と2男1女)と離れて、東京・九段の議員宿舎でひとり暮らし。代表に就任するまでは毎週末、必ず家族の元に帰っていたが、地方遊説などが増えたために、帰る機会が減ったのが現在の悩みだ。

「自分自身の政治活動は1ヵ月に半日と決めているのですが、それがなくても地元に帰って、家族と共通の時間を作ろうと努力しています」

――食事はどうしているのですか。

「会合の予定がない日の夜は宿舎の食堂で食べる。土日は食堂が閉まるので、コンビニですね。コンビニの白いご飯、あれ、結構うまいでしょう。それと、おかずを買ってね。自分では作らないな」

■笑ってはいられない 

最後に少し意地悪な質問をした。

――「笑わない」と言われていますが、多少は笑う努力をしているんですか。

「今、日本が置かれている状況を見ますと、とても笑ってはいられません」

確かにおっしゃる通り。面白みに欠けると言われる岡田だが、今の日本の政治に欠けている真面目さを持っていることだけは確かなようだ。




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